新春エッセイ。
最近私のまわり(限定)で話題になっている「声」について。
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幼いころ、「嗅ぐ」ことよりも「聴く」ことのほうが得意だった。どうして救急車のサイレンは自分の横を通り過ぎた瞬間から音程がずれだすのだろう。どうしてウグイスの声はあんなに遠くまでとどくのだろう。自動ドアの開閉音には音程があるのに引きドアを閉める音は音程が見えにくいのはなぜだ。いなかのおばあちゃんが「え」という母音を「い」と発音するのはなぜなんだ。そして、入れ歯のおばあちゃんがたくあんを噛み切る音が大好きでうらやましかった。
そういった音すべてが気になって気になってしょうがなかったし、そう聞こえるのはもしかしたら自分だけなのかもしれないから確認したく、いつも誰か大人を見つけてはしつこく訊いてばかりいたような気がする。
なかでも人の声に関しては、もう、ずうううっと、質問攻め。「おじさんは子供のころどんな声だった?」「あたしは将来どういう声になるの?」。
訊かれた大人側も困っただろうが、それにしても大人の話の退屈さといったらなかった。「そんなことより、やまびこがどうして返ってくるか知ってる?」だって。つまんないよー。そんなのは全然フシギじゃないからどうでもよくて、そんなことよりか、おじさんがいつからそういう声になったのか、そしていなかのおばあちゃんの発音の起源、そういうことのほうがよっぽど重大。それが知りたいんだ。全国のおばあちゃんたちに五十音を順番に言ってもらってそれを聴いてみたいと思っていた。
あのころ、人の話は内容を理解して記憶するのではなく、声そのものをまるごとそっくり記憶していたようにも思う。
ひとが、声を発する寸前にもれる微声と、のばしたときの声に、とくに興味がある。
ヒカシューの巻上公一さんは、「声」に関する本を書かれている。読んでいて文章のスマート美に見とれてしまうが、そのことに関しては今回は置いておくとして、ひとまず声だ。
かなり前だが巻上さんのステージを観たことがあった。声による表現である。ホーミー(あるいはホーメイ)という倍音唱法や口琴、そのほかにも、言葉での言いまわしがむずかしいような音を、すべて声で表現されていた。
どれもこれもはじめて耳にする声ばかりだった。声の一語で片付けてしまっては不足だと思う。巻上さんのからだの「結果」であり、骨など全身のあちこちに響きながら出てくる音。竜巻きのごとく発生する音だ。
幼い頃の自分にもこのステージを見せてやりたかった。きっと泣いて喜んだはずだ。
弦楽器でなくとも、肉声でも倍音が出せるとは知らなかった。あまりの驚きにまばたきも忘れ、自分の耳が変になったかと疑ったほどだ。
けれど驚きながらもどこかのんきに、(蕎麦屋の)神田『薮』を思い出していた私なのであった。あの店の店員さんたちの声も独特だ。客の注文を厨房へ伝えるときの声。百人一首を読みあげるように雅びやかな声で朗々と注文を通すが、たまにそれが念仏のような低くうなる声にも聞こえる。あの注文声もこのホーミーでやったら良いのではないか。そんなわけのわからないことまで考え、頭は混乱していた。(※ちなみに日本でホーミーのできる人はごく少数だそうです)
自分の住む地域から遠く離れた地方の方言や、外国語を耳にする経験が積もれば積もるほど、いかに自分が口先だけで平坦に発声しているかを思い知らされる。
もっと色あざやかに声を出せるようになりたい。もっと広々と声を解放してやりたい。湧き出る泉のように力強く美しく発声してみたい。
けれど、どんなに自由に歌ったり話せたとしてもまだ解放したりないような気がしてしまうのは、やっぱり巻上さんの声を拝見してしまったからだ。あの自由さが自分自身のなかにあったらどんなに気持ちが良いだろうかと渇望してしまうのである。そうなるとドレミ音階の枠までをも窮屈がらずにはいられないが、そう言ってこだわってばかりもいられないので、できるかぎりの対応をしていこうと思う。
年々、声も老いてゆく。それも含めての、できるかぎりの対応。あれこれ大変だ。
ひとの声と、自分の声と。それを聴くバランスに気をつけたいと思っている最近である。
人を惹きつけてやまない美声の人や、なんとなく心地よく聴きほれてしまう声など、もってうまれた声の質というものはあるけれど、ひとの声そのものに興味があるからとりあえずはどんな人の声でも聴いてみたい。それと同時に、自分の声も解放しながらも律していきたい。